うだるような暑さもなりを潜め、すっかり涼しくなってしまったような時期。
夏も終わり、秋に差し掛かろうとしている真夜中の甲板に、二人の人物が立っていた。
少し前までは暑くて暑くて仕方がなかったというのに、全く時間が経つのはなんとも早いものだ。
「お前は日がな一日冷房の効いた部屋に入り浸っているじゃないか」
暑さなんて感じるタイミングがあったのか、と隣から茶々を入れてくる声に、おどけた様に肩をすくめた。
「私だって夏の厚さを感じたいとは思っていたさ。仕事が山積みだったんだ。キミとは違って日がな一日忙しくて、気付けば夏も終わりそうなくらいだよ」
「だったら今もこんなところにいる暇はないんじゃないのか?」
「ようやくひと段落着いたところなんだよ。私だって少しくらい夏を味わいたいのさ」
そういうと、やつは一瞬こちらの顔を見て何かを言いかけたが、やがて口を閉じた。
大抵の人間が寝静まる夜遅くに出歩こうとする自分の横に、大した文句も言わずに並んで歩くやつは優しい。
自分はともかくとして、夜の風に髪をたなびかせるやつの絵面はかなり目に良いものだ。
若干の重さを持った扉を開けたとき、風が大して強くなかったのは幸いだった。
船の上というのもあって全くの無風は期待していなかったが、この程度であれば▲▲から格安で買い取った、売れ残りらしい花火に火を付ける分には問題ない。
「水の用意は完璧、ライターの残量も十分だ。これなら最後まで火をつけることもできるな」
そう。夏も終わりかけた深夜。
わたしたちは■■の甲板でささやかな花火大会を行おうとしていた。
提案したのはわたしで、渋い顔をしながらも着いてきたのはやつ。
他に観客はいない。
互いに戦地に身を置くもの同士、大量の仕事を前倒しにこなして時間を作り、彼と過ごすようにし始めたのはいつからだったろう。
互いにいつ死ぬかもわからない。
とはいえ、わたしの指揮下にいる間は彼を死なせるつもりも、私が死ぬつもりもないが、わたしの方には別の問題があった。
「一つ目はこれにしようか。青く燃えるらしい」
「改めて見ると随分な数があるな」
「燃やしてみれば案外すぐだと思うよ」
記憶を失う前のわたしを彼は知っている。
わたしはいつまで"わたし″でいられるだろう。
いつもと同じように眠りにつき、次に目覚めたとき。
いまのわたしは跡形もなく消え去って、昔のわたしが目を覚ますかもしれない。

細長い持ち手を左手の指でつまみ上げ、太くなった先端にライターの火を近づけた。
青く燃える花火らしいが、そのデザインは全体的に赤く、袋に記載された売り文句が無ければとても青く燃えるとは思わない見た目をしている。
「あれ?つかないな」
ライターの炎が先端の薄い紙を燃やしたものの、その炎は薄い紙を燃やすのみですぐに消えてしまった。
ひと夏まるまる売れ残っていたからなのだろうか。それとも粗悪品を掴まされたのだろうか。
彼女が格安と言ってこちらに売りつけてくる商品は、過去の経験上いまいち信用に欠ける。
「困ったな。流石に火が付かない花火で楽しむのは難しいぞ」
そういって手に持った花火をくるくると回すように弄っていると、大きな掌がわたしの手を包むようにしてこちらに伸びてきた。
貸してみろ、と言って私の手から花火を奪ったやつが、上着の内ポケットからジッポを取り出して花火に火を近づけた。
「直接炙るのかい?」
「先に着いている紙もそのためにあるんだろう。なら結果は同じだ」
真顔で言い放つ彼の顔と、弱い風に吹かれて少しだけ揺れる火を交互に見つめていると、突然花火から火が上がった。
その炎はきちんと青い色をしていて、やつの顔を、上半身を青白く照らしている。
おお、と感嘆の声を上げると未だに激しく燃え盛っている花火の持ち手がこちらに向けられた。
「お前が持て」
「ええ?このまま花火を持つキミを見ていたいな」
「花火をしに来たのはお前だろう」
「私はキミと花火をしたかったんだ。キミにもやってほしいんだけど」
「オレはこんな火に興味はない」
そうこう言っているうちに火は急速に勢いを失い、そのことに気付いたころには既に火は本体から燃え落ちていた。
あ、と思わず声が漏れ、それと同時に未だ少しだけ炎がくっついた花火の先が二人の足元に落ちる。
「まあ、わたしはキミの顏が好きだからさ。そんなキミが花火をしている所を見るだけでも十分に楽しめるんだけど」
火が消え、ただの棒となってしまった花火をやつの手から受け取り、言葉を続ける。
「キミが一人で花火をしてるなんて状況、おかしくて笑っちゃうね」
そう笑いかけるとやつは呆れたようなため息をついた。
先ほどまで燃え盛っていた青白い炎に照らされた顔もいいものだが、月明りを背景にぼんやりと見えるその顔も、やはりわたしが好きな形をしている。
「まあ、直接炙るのはいい案だね。これなら多少しけっていたところで着火は容易だろう」
まだいくつか残っている花火の束の中から無造作に一本取りだして、その先端にライターの火を近づける。
その火はたちまち花火の先の紙に引火し、そしてその日は紙をすべて燃やし尽くしたあと消えてしまった。
やはり中がしけっているのだろう。当初の予定通り花火の先にライターの炎を直接くっつけるようにして火が付くのを待った。
だが、私の予想と反して花火の先は黒く焦げていくばかりで一向に火が上がる様子がない。
だからわたしは状況の好転を期待して、より効果的だと思われる方法をとることにした。
つまり、今私の手元で頼りなさげにゆらゆらと揺れる小さな炎をより確かなものにするために、その根元を花火の先端に押し付けるようにして近づけた。
先ほどまで黒くすすけていくだけだった先端を飲み込んで、ライターの火は火薬がたっぷり詰まっているであろう膨らみを飲み込み、そして、
「あっつ!」
「ッ、おい」
「びっくりしたな!熱いよ、全く」
花火の先端から鋭い音を鳴らしながら噴き出た大量の赤色の火花がわたしの指を焼いた。
花火に火をつけることを考えすぎて、火が付いた後のことを全く考えてなかったが故の過失だろう。
驚いて放してしまった花火は地面に落ちて、その先端から噴き出る火もすぐに消えてしまった。
デスクワークが続く私の反射神経でも、さすがに指がこんがり焼けるのを待つほどのものではなかったようで、辛うじて軽いやけどになるだろうという程度のものだった。
いまだにその内側に熱を感じる指に息を吹きかけながら、もう片方の手で新しい花火を摘まみ上げると、わたしのものよりも大きな手がわたしの指から花火を奪っていった。
「火は俺がつける。火が付いたら渡すから待っていろ」
「それは助かるな。キミはなんだか…火とか熱さに対して耐性がありそうだからさ」
そう言うとやつはため息をついて花火にライターの火をかざした。
彼が持ち前のジッポで煙草に火を付けるところは何度も目にしているけれども、花火を付けるだけで同じような色気が出るのは流石と言ったところだろうか。勿論そんなことは口に出すことはないけれど、わたしはそんなことを考えながら、花火の先端を見つめるやつの瞳を眺めていた。
やつの持つ花火から勢いよく火が上がった。その色は真っ赤な赤色で、今日火をともした花火の中でわたしたちがよく見る炎に一番近い色をしていた。
彼は私のように指を焼かれるようなヘマはしないようだった。最も、花火程度の火では彼の指には一切の火傷も負わせることはできないだろうけど。
「花火の炎の儚さって言うのは、前にキミが言っていた花の散る儚さに似ているね」
ふと、そんな言葉が口から出た。
やつは一瞬だけ花火から目を離してチラリとこちらを見たけれど、すぐに花火に目を戻したが、わたしは構わずに続けた。
「散る姿、終わり際の儚さという話であれば、花火も『花』とつくだけあって栄える瞬間と、その炎が衰える瞬間とでは花の咲き誇ってから枯れるまでの様子によく似ているよね」
事実、やつの手に握られている花火はすでに先ほどの勢いを失いつつあり、もうあと数秒もすれば焼け落ちて消えてしまうだろう。
「まさか、お前の感性に共感する日が来るとはな」
「わたしだって人並の感性は持ち合わせているつもりだよ」
「もしそうだとしたら、いまお前の周りにいるオペレーターのお前を見る目はもっと変わったものだっただろうな」
こちらに目を向けることもなく花火を眺めながらも、先ほどよりも幾分かこちらに意識を向けてそう言うやつは少しだけ笑っていた。
そんな風に穏やかに笑うやつの笑顔を私は見たことが無くて、思わずその顔を凝視する。
そうしていくらかの時間が経った頃、やつのもつ花火はいよいよ消えてしまい、光源としての役割を失ってしまった。
再び闇に落ちて甲版の僅かな光のみに照らされるその顔は酷く見えにくく、さきほどの笑顔はすっかり夜の闇の中に隠れてしまったけれど、きっとわたしは死ぬまで今の彼の表情を覚えているだろうと思った。
「花火、消えたな」
「…ああ」
「次の。ほら」
あと数本になってしまった束の中から新しい花火を一つつまんでやつの方に差し出すと、武骨で大きな手が私の手から花火を持っていった。
先ほどと違って奪うような手つきではなく、緩慢としたその指先が花火を受け取る時、一瞬わたしの指に触れたのを感じた。
残る花火は片手で数えられるほどの数しかなくなってしまった。
わたしはその少ない時間で、あとどれくらいの間やつの顔を眺めていることができるだろうか。
再び付けられたライターの火に照らされたその顔を眺めていた。
やつは当然その視線にも気付いているだろうが、構わずに花火の先端に揺らめく炎を押し付けている。
この時間が少しでも延びるのだから、やはり花火がしけっていてよかったなと思いながらその様子を見つめていた。
彼の手元から今度は青色の炎が上がった。
乾いた音を勢いよく響かせながら燃え盛る火を瞳の中に抑えるやつを目にして、思わず足元に散らばった花火の束に手がいった。
わたしが彼の顔を眺めていられる時間はあとどれくらいだろうか、というのを確認するように、いつまでも続けばいいのにと願うように。